復興事業新図録

女川原子力発電所の防潮堤

東日本大震災からちょうど400年前の、伊達政宗の時代に起きた慶長三陸地震と大津波。常に地震と大津波が起こることを想定し、女川原子力発電所に施されていたのは、先人から受け継いできた大津波への備えでした。

震源から一番近い原子力発電所

東日本大震災では、国内史上最大のマグニチュード9.0が観測され、女川原子力発電所が位置する牡鹿半島全体では約1mの地盤沈下が発生し、甚大な被害が引き起こされました。震源地から約130kmと最も近い原子力発電所だった女川原子力発電所では、震度6弱・地震加速度567.5ガルを記録し、最大約13mの津波が押し寄せました。当時1号機と3号機が通常運転中、2号機が原子炉起動中でしたが、大きな揺れに伴い、3機すべてが設計通りに自動停止しました。

外部電源(送電線)は5回線のうち1回線が確保され、原子炉を冷却するための海水ポンプを動かす電気を確保することができました。また発電所の敷地内に設置している放射線モニターの値に異常は見られず、外部への影響もありませんでした。

港湾部平常時(2012.5.10撮影)
港湾部津波襲来時(2011.3.11 午後5時24分撮影)

地域の避難者を全社を挙げて支援

津波到達後の午後4時過ぎに、発電所の南側にある鮫浦地区の区長をはじめとする住人たちが、女川原子力PRセンターに助けを求めて訪れました。近くで土木工事をしていた方々も避難し、総勢40名ほどになりました。原子力発電所は本来、一般の方が簡単に入れる場所ではありませんが、躊躇することなく受け入れを決断しました。

翌12日の朝に仙台の本社に依頼していた物資を積んだヘリコプターが到着し、帰りには避難者の中にいた酸素吸入が必要な方や妊婦さんを仙台の病院へ搬送しました。発電所内の体育館を避難所として開放し、6月6日までの約3ヶ月間、最大で364名(3月14日)が避難生活を送りました。

体育館での避難生活

1人の技術者の知見が活きた津波対策

発電所のある三陸海岸は、古くから大津波の被害を受けてきました。そのため建設計画当初から、津波対策を重要視していました。1号機設計当時の1970年代は、まだ津波のシミュレーション技術が乏しく、文献調査や地元の方々への聞き取り調査から津波の高さを3m程度と想定しました。

しかし、社外の専門家を含む社内委員会では、三陸沖を震源とする巨大地震として知られる、869年の「貞観津波」と1611年の「慶長三陸地震津波」に目を向け調査を進めました。東京大学地震研究所などの研究結果や、当社独自の調査研究から、1号機設置の際の主要建屋1階の高さを海抜15m、敷地の高さを海抜14.8mとしました。14.8mを強く主張したのは、電力土木技術者でもあった当時の東北電力副社長でした。その結果、女川原子力発電所は何度も押し寄せる巨大津波に耐え、発電所はもちろん地域に暮らす人たちの命と、その後の暮らしを守りました。

その他にも、近い将来、宮城県沖地震が発生することが高いことを考慮し、耐震工事や自主的な地震対策、8台の非常用ディーゼル発電機の標準装備、万一に備えて原水タンクを2基に分割して設置しておくなど、様々な対策が施されていました。

津波襲来時のイメージ図